ホーチミン「さくら介護研修センター」を再び訪れて」
2018年2月10日
一般社団法人国際介護人材育成事業団
理事長 金澤 剛
雪が舞い、成田空港までの国内移動が危ぶまれながらも、何とか成田に到着し、定刻に成田空港をたち、6時間後到着。
深夜にも関わらず,出稼先から旧正月(テト)休暇で帰郷するベトナムの人たち、それを出迎える家族たちで、タンソンニャット空港は大混雑。
約半年ぶりのホーチミンであった。
Ⅰ はじめに
今回の訪問は、昨年8月19日にオープンしたベトナムホーチミン175病院内の「さくら介護研修センター」が、その後どのように運営されているかの確認が主なる目的でありました。
当初、開設に多大な尽力を尽くし、彼らの努力なしには、決して開設されることがなかったであろう、株式会社社会福祉総合研究所の開設のためのコンセプトの通りに運営されているかの確認も目的であった。
それは「介護先進国」の日本側は、施設設計や設備調達など開設に必要なことは協力するが、運営に関してはベトナム側ですべてやり、結果的にベトナム側が国に似合った高齢者介護を独自に作り上げる事を目的にする。
このような考え方の実践の有用性を確認することが目的でありました。
Ⅱ 「日本的介護」の輸出とは
日本政府は、日本の今後の戦略の一つとして、「日本的介護の輸出」と称して今後高齢化を迎えるのが予定されている、アジア諸国などを中心として日本で培った介護を輸出しようとしている。
また一方、圧倒的な日本の高齢化の進行に伴って生じる介護を担う人材不足を、その国々から調達し、何とか帳尻合わせをするため技能実習制度の中に介護職種も含ませ、その制度の推進を通してこの問題の解決の一助にしようとしている。
要約してみれば、日本の介護人材を海外の、それもこれから介護が必要不可欠の国々にそれを求め、日本で介護を提供させ、それを習得し、母国に持ち帰る。その人材を通して母国に日本的介護を定着、ひろげる。このような仕組みの実行を企画しているようだ。
私はこのように描かれた絵にはなはだ疑問を抱いているのである。
確かに一見すると双方満足の仕組みのようであるがだが、しかし、対象が介護であるために無理が生じるような気がしている。
なぜならば介護は、例えば、医療などと違い生活に立脚し、そこから手法などが生まれているためである。その意味で共通のスタンダードなどは「概念」ぐらい、でその国、地域に役立つそれは、その社会が作り出すものであるためか、あくまで、その国、あるいはその地域の役に立つ介護はその国の中から生まれてくるのであるからである。
その為、日本で生まれ日本で有用性を発揮している、介護をそのまま文化、歴史の違う国々に持ち込み、それを定着させるのは当然限界があり、それは、その国にとっては、あくまできっかけであり、それを定着発展させるのは、それを必要としている国々なのである。
昨年8月のお盆のころ、ホーチミンにて、APEC会議の一環でアジア諸国の高齢化の進行に伴い、その対策として、日本政府が実質的な呼びかけとなり「持続可能な成長のための健康長寿社会への投資ー高齢者ケアのための地域的アプローチ」と称したイベントが開催された(その参加報告書は別稿「ベトナム、ホーチミンフォーラムに参加して」をお読みください。)
その中で実感したことは、あらためて記せば各国のスピーカーは口々に近々到来する、あるいは現実化しつつある高齢社会に対して介護を語っているが、言葉としては「介護」として同一語であるが、中身、あるいはニュアンスがそれぞれなのである。
言わば『同床異夢』とでも言い換えることができるような風景のような気がした。
だがしかし主催者はその総括を以下のように語っていた。
ホーチミンフォーラムへの日本政府のコメントは
●自立支援へのパラダイムシフトへの関心が非常に高く、
特に自立支援の効果に関しての説明時には会場の集中度が一気に上がった
●自立支援の重要性は十分に浸透し、自国の人材、自国への導入という観点からも
育成や日本の技術やサービス導入への関心を喚起できた模様
この違いである。
確かに主催者である政府の耳にはそのように聞こえたのであろう。
さてこの違いを考えてみたい。
確かに参加各国の担当者たちは、日本の先行事例を決して対岸の火と見るわけにはいかない、それはそれぞれに想定内の未来と各統計が物語っているからである。
またそのデーターは、確かに何年先の高齢者の人口であり、それを支える国民の総数などであり、またその恐怖が訪れるまでの時間などのデータなどである。
それを基に各国は未来予想をし、それには当然先行事例として日本のそれに多大な関心を持つのは当然のことである。
自国への導入という観点からも自国の人材育成や日本の技術やサービス導入への関心を持つのは当然なのである。
だがしかし問題なのは、日本の先行事例とその対策は、あくまで日本社会があって初めて出来上がったことであり、その社会構造の違いを自覚した場合そのまま自国に導入できないのは当然のことである。
その参加者たちの立ち位置の違いが先に私が感じた雰囲気を醸し出していたのであろうか。
また現在の日本の介護が成り立つまでに当然の時代変化に対処してきた結果であり、それぞれの具体の結果なのであり、その時代変化を無視して結果だけを他国、他地域を持ち込んだところで出来上がるのは「陳腐」が見えているのである。
Ⅲ 「日本的介護」の誕生
それではあらためて日本の介護が生まれた経過など振り返ってみよう。
確かに日本においても介護が生まれてまだ時間が経っていない。ただしその場合、介護とは専門家が行う介護のことであり職業としての介護人が行う介護のことである
日本においても家族の家事としての介護から社会全体で実施する介護のことである。
日本にあってそれがはっきりしたのは今世紀になり介護保険が施行されてからのことである。それまで社会的介護といえば救貧対策としての「お世話」の領域などであり、現在の介護と呼ばれる世界は20世紀末になり、21世紀の少子高齢化社会の到来に向かう社会制度構築の中からそれが社会に必要不可欠のことであり、それ以上に今後の社会にとっては中心課題にさえなるとの認識で位置付けられたのであった。
また医療の高度化複雑化は、人の身体のことにとどまることなく、社会問題などにアプローチが必然となり、その領域がとめどなく広がりを見せ、その典型が高齢者領域となり、いわゆる介護の分離、あるいは独自領域としての確立が必要になってきた。
日本の介護を生んだ3潮流
現在日本において介護と言われる世界はおおよそ三つの潮流がある、それはそれぞれの出自いわれがある。
一つは医療、特に看護の延長線としての介護
正直なところ、この流れはいまだに看護と介護の領域の分離が不明確であるが、それは例えば医療機関側の運営システムに、入院施設を中心としてその後のフォローを自己の関連組織で行う「複合組織」と言われる形態が、日本であっては一般的になり、その為か医療文化で患者を包み込むのが当たり前となり、介護はその領域の中に含まれ、医療の延長線に介護が位置付けられ、そこから生まれた流れ。
それは例えば、介護方針を決める手法として看護過程ならぬ、介護過程などと名付け、利用していることにも見ることができるように、医療の延長線上に介護がとらえられている世界であるが。
このように医療を出自とする流れ。
また一つは、救貧対策としての篤志家などから発した日本の古くからある、源流からの流れ
医療がこの世界に近づく前の存在、例えば戦前からあるような伝統的な福祉施設や戦後の措置制度を保証した福祉施設などの日本の福祉を形作り源流ともいえる流れ。
利用者のお世話から始まった介護の流れ。特に介護の倫理的側面をリードしている。
リハビリ医たちが提唱した流れ
特にこの頃注目されている自立支援介護と称される介護。
介護保険のできるころから体系化され始めたが、いわゆるリハビリ医たちが中心になり生まれた潮流。おむつ外し、ベッドからの離床、胃瘻抜去、車いすから歩行へ、など介護度の改善を目的にした介護、
この世界は、現在日本においては医療の進歩に伴って発生する合併症、そしてその改善とでも言える領域も現在は介護のできることである。
その意味で現代日本にあっては、患者の生活の改善に貢献する領域も介護は持っている、なぜならば介護は生活の質の改善に依拠することであるからである。
そしてその技術を一般化する科学を介護領域として広げる。
このような三つの潮流が相まって日本の介護と言はれている。またそれぞれの潮流から生まれた介護はすべて日本の介護と呼ばれ、それぞれに機能している。
日本の介護はまず社会福祉の領域として救貧組織としての施設運営に始まり、その運営の根幹となる寮母さんがなす「お世話」から発し、介護保険の必要が社会的に認知される頃にその「お世話」を社会的業務として位置づける必要が生まれ、その一般化が生じたのである、そこから言わば「お世話」の中に科学性で表現することが必要となったのである、そこに医学モデルである看護世界での表現を求め、その結果看護の延長線としての介護が成立し始めたのである。
そのことは、その進行に対しては、かつての「寮母」世界と新しい看護世界から生まれた「介護」の確執が生まれるのは当然のことである。
その確執の中、いわば第3勢力とでも言える形で高齢者の自立を身体的レベルの向上、あるいはその自尊心の尊重に焦点を合わせたムーブメントが生まれた、それがリハビリ医たちが中心となった自立支援介護と呼ばれる介護概念、あるいは方法であります。
このような流れの中に日本の介護があり、またそれぞれに領域の共存が可能であるため現状はあまり矛盾なく共存され、現場の介護施設の介護方針の違いとしてそれぞれ成り立って、それぞれが日本の介護であるといえる現状なのである。
また三つの潮流を総称して「日本的介護」と呼ばれそして別名にそれぞれに「自立支援介護」と呼んでいる。
Ⅳ 「さくら介護研修センター」の現状は
今回さくら介護研修センター開設後、約半年後に再び訪れた。
何となく、懐かしい思いで中に入ると、多少設備、備品などが増え、配置が変わっており、必要に応じて変えている気配が感じられた。
またテト前の土曜日であり、施設はお休み状態であり、いつもになく閑散としていた。
協力者の社会福祉総合研究所の担当者の言によれば、現況は「予想以上に活用され、また自発的な取り組みが進められている」とのことである。
それは、175病院の既存の研修用具もセンターに移され、設備の充実に取り組まれている。また以前に比べて清掃も徹底され、清潔で使いやすい環境維持の意識が非常にすすんだ。
そうした活動は、オープン前に日本での事前研修を受けた看護師が中心になって進められている。
1. 例えば、名古屋大学医学部とのシンポジウムがセンターで開催されるなど、院内研修だけでなく対外研修なども定期的に開催され、地域の拠点としても活用されている。
昨年の12月には社会福祉総合研究所の教育担当者による介護研修が開催された折には、175病院の看護婦長をはじめ20人以上の看護師が参加し、その熱心さは担当講師も驚くほどであった。
このように、この施設の活用は175病院側の自主的、自覚的運用にて活用され、活発化しているとのことである。
そうなのである
今必要なのは例えばホーチミンの175病院の現状を前提にして、その改善を心から願っている相手側の需要にこたえて初めて活用されるのである、またそれは相手側に運用を委ねて、初めて可能になる。必要なのは相手とその信頼関係ができるか否かなのであろう。
その意味で今回の「ホーチミン175病院さくら介護研修センター」の開設、並びに運営の諸関係者のそれぞれのポジションは今後の私どもの外国人技能実習生問題に対処する立ち位置を示唆しているのである。
1 近代看護の発生など
先に日本の介護の現状を記したところであるが、それは主に医療との関係の時代的変化に色濃く反映している。例えばこうである。
日本の近代医療は、感染症との戦いであった、その治療は患者を日常社会、あるいは地域社会からの隔絶、隔離で成り立っていた。患者と認定されれば家庭から地域から隔絶し、入院という生活を余儀なくされ、社会的にもそれが合意されていた、ひとたび治療のための生活に入ると、その人は労働などの社会生活上の義務を免除されるのであった。
また時として家族なども面会が制限さえされるのであった。その為生活の面倒は専門の看護師等が家族に変わって代行するのであった。
そこから専門の業種である看護師などが生まれ、また、それがための理論、技術などが科学として昇華されたりまた、医療は鋭く発展したりして、その力もあって感染症から勝利したのであった。
また一方、現代社会化は家庭にて療養ができるほどの家庭力をもなくす地域社会へと変化させ、看護の社会化が確立、完成させたのであった。
この様に科学としての医学の発展と治療力の向上、家庭療養力とでも言える家庭構造の変化が相まって専門看護師の力が社会的に必要となり、また認知されるようなったのであった、
それが完全にと言えるほどに完成したのは、極端に言えば、日本でもわずか20~30年前のことである。
当初、それを提案したのは、現状の改変の必要を感じた第2次大戦の戦後処理に駐留したGHQであった。
GHQは日本の医療実態を見て、いわゆる改善のため「3基準」の確立の指導を提案し、それを受けて、日本政府は病院運営に「完全看護、基準給食、基準寝具」などの文字通りの基準を決め、診療報酬を加算するなどして積極的に推進し、戦後高度成長社会など経過させながら、ある程度の時間をかけて、日本に定着させたのであった。
以前は、日本にあっても、入院は「小さな引っ越し」と言われ、家人が入院すると、家族の誰かが付き添い、布団を持ち込み、日々3度の食事を提供するのが日本においても普通のことであったそれが変化したのであった。
先に記したGHQはこの現状を見たのであろう。
また日本にあっては、現代の家庭介護力の崩壊は、入院時のみならず、介護が必要になった時も家庭以外の力を必要とするところまで来たのである。それが介護保険を必要とする社会の到来であるし、専門介護の発生なのである。
2 ホーチミンの現状
今、ホーチミンでは日本のこの過程を送りつつある。
だが違うところは、日本にあっては、医療の発達と地域社会特に家庭制度崩壊の進行のバランスがとれていて結果的にごく当たり前に入院生活は家庭力の必要がなく可能となったが、ホーチミンでは治療が現代社会の世界的スタンダードで実施されるが、それを支える社会秩序、制度が追いついていかず、結果的に患者身の回りの世話などは家族がするなどの実情であり、かつての日本のように「小さな引っ越し」状態なのである。
その為か175病院では日本ではもう見なくなった、家族による付き添いが一般的であり入院村の様相であった。
この様な現状であれば、当然他人がやる介護、あるいは介護の社会化などは未発達であり、またその必要が生じる社会まで到来してないのである。
いまだベトナム社会は介護が社会的産物として認知、合意されるところまで行っていないのである。
まだ家庭介護力に余力を持った社会なのである。
今私どもは、ベトナム、あるいは実習生の送り出し国を考えた場合、このことに深く配慮する必要がある。
だが注意しなければならないことは、このことは決して遅れた社会などではなく、現実の社会のこの構図の中で必要な介護など形作ることなのである。
その為には、例えば、ベトナムであればベトナムで独自に立案実施する必要があるのだ、
我々の仕事はその環境を作りそして、対象国が自立していくために援助することなのである。
Ⅴ 今必要なのは
今まで記してきたように、ホーチミンでは介護より、看護の充実が先行する必要があるようだ。
また日本でいう介護と看護の違いなどの分科が未だ必要としていない社会なのかもしれない。
今必要なのは、看護の力の充実、またそれを前提にした看護表現でいう整容、あるいは介護表現でいう基本介護の力を充実することなのかもしれない。
そしてそのことを、例えば付き添いの家族などに教育することが必要なのかもしれない。
その為ホーチミンにあっては看護師中心にして自立した看護力の強化。
その為にも当該施設が活用されているようだ。
そのうえで、そして日本にあって基本的介護を習得した実習生が帰国してそれをベトナム風にアレンジ翻訳し広げることが必要なのかもしれない。
その時に看護領域の拡大としての介護か、独自領域としての看護かの回答を必要とする社会になっているはずである。
だからこそ「日本的介護の輸出」との政府の掛け声はこの現実から出発するべきであり、何も日本で決まった介護をそのまま移転しても全く意味がない。
他のことはともかく少なくとも介護にあってはそれが課題なのである。
「さくら介護研修センター」問題は、今はボールがベトナム側に投げられ、ベトナム側は必要な世界として積極的に運用を始めた。
次に必ずベトナム側は、我々にボールを投げ返してくる。我々はどのようなボールが返ってくるか注意して聞き耳を立てておこう。
少なくとも日本の介護現場の人手不足対策として例えばベトナムの若い人たちに協力を仰ぐのであれば、そのようなことに身構えておくのが義務であろう。
この様なことが今回再び「ホーチミン175病院さくら介護研修センター」を訪問して感じたことであります。
以上