『我が事、丸ごと』何のこと?

~私が考える「社会福祉の原点」からの問い直し~

 

マイケアプラン研究会世話人代表

社会福祉法人健光園 理事長

小 國 英 夫

1.社会福祉の原点とは

社会福祉とは「何を認識し、何を目指し、何にどのように働きかける」ことか。

人は社会を構成し、人と関わる中で人間となる(人格の社会化、主体形成、人間的成長)。

人間として生涯を全うするため「社会的孤立(危機)の予防と解放」こそ社会福祉の最重要課題。

豊かな人間関係の形成(維持)を支援し、日常性を維持(回復)すること。

全ての人々が人間として生きる基本的人権を妨げる社会的構造、制度、文化への挑戦。

 

2.現代社会と社会福祉

産業革命後、各種の技術は急速に発展し、無数の商品を生み出す無数の産業と職業が生まれ分業化が著しく進んだ。こうした流れの中で社会福祉も例外ではなかった。これを私は「超分業化社会(超商品化社会)」と呼んでいる。

また、産業化は生活文化の都市化を著しく進め、人々の生活単位は急速に小規模化(個人化)してきている。

その結果、人々の日常生活は多くの商品や社会サービスの組み合わせ(外部化)でかろうじて成り立っている状況(ジグソーパズル状況)である。これを私は「社会化」ではなく「生活の他人化」と呼んでいる。

これにより人々の主体性形成や社会性形成が困難となり、アイデンティティが拡散し、ますます商品や社会サービスへの依存度を高めていく。

そうしたことにより、人々は人生で体験する多くの重要なライフイベントに、何の訓練も心構えもなく関わることが極めて多くなってきている。人々の生活力や当事者能力は著しく低下している。これを私は「予備体験の欠落」と呼んでいる。こうしたことは介護や子育てが深刻化する大きな要因になっている。

このようにして現代人は社会的孤立への道を転げ落ちている。

そこにおける人生哲学(=俗流倫理?)は「人に迷惑を掛けてはいけない」「お節介をしてはいけない」であり、コミュニティ(課題を共有する関係、課題を社会化する過程~「我が事、丸ごと、地域共生社会」)はますます深刻な状況に陥っている。

そのことにより人々は更に商品や制度(各種のシステム)に依存する結果となり、コミュニティの崩壊が急速に進むダウンスパイラルに陥っている。

例えば、病人を検査漬け、薬漬けにしても心身の状況が更に悪化するのと同様、最も大切なことは商品や制度に依存することではなく、生活の土台としてのコミュニティの在り方(心身の状況、体質)を改善する(コミュニティを再生する)ことである。

つまり、生活の土台としてのより良いコミュニティのないところではいろいろな商品や社会サービスも当事者への負荷をかけるだけで決して良い結果につながっていかない。それどころか当事者は無数の商品群と社会サービス群に取り囲まれて社会的孤立が更に進むことは多くの人々が既に経験しているところである。

各種の「福祉商品」や「福祉サービス」は今や副作用の方が大きくなり、極論すれば反福祉的にしか機能していないのではなかろうか。つまり「福祉商品」や「福祉サービス」によって当事者達の人間関係やQOLが豊かになっている事例は決して多くないように思う(現在、これに関しては同志社の教員や院生と調査を計画中~予備調査は終了。本調査に向け同志社大学での倫理審査も通過した)。

しかも、多くの公的福祉サービス提供者は行政によりコントロールされ、サービス提供者の多くは制度の下請け業者に成り下がっている。介護保険制度はその最たるものと言えるのではないか。

 

3.社会福祉の組織原理とは

日本の社会福祉は今や無数の法律や制度によって極端に分業化されている。行政組織もどんどんと縦割り(細分化)が進み、統合システムとしての官僚制度も既に限界を示し、当事者の状況を総合的に把握する機能を失っている。事業者や専門職も同様の状況にある。本物の社会福祉実践は何処に行ったのか。(例:児童虐待と家庭内暴力は別々のセクションで扱われている)

このような状況にしてしまった責任(行政だけでなく、御用学者も含めて)が全く問われないままに権力サイドから「我が事、丸ごと」と言われても「何のこと? 責任転嫁するな!」と言いたくなる。

しかし、こうした権力サイドの動向に対して追随するだけで、ほとんど対抗してこなかったわれわれ社会福祉関係者の責任、市民・住民の責任を不問にするわけにはいかない。

官僚制の組織原理はいわゆる縦割りである。それに対する社会福祉の組織原理は横割り=横断的=総合的でなければならない。しかし、社会福祉協議会も福祉事業所の組織原理も極めて官僚的であり、これでは対抗できないのは当然である。

「横割り、横断的、総合的」な組織や運動のために最も重要且つ不可欠なのは当事者の組織化である。そのために社会福祉協議会は存在しているのではないか。ニーズの掘り起こしや組織化こそ物事をトータルに認識する基本である。組織や人造物はバラバラなものを組み合わせて成り立つのであるが、当事者(ニーズの体現者)は本来「統一体(ホール・ヒューマン・ビィーング)」である。従って当事者視点からのアプローチこそ、縦割りへのカウンターパワーであり、縦割りの問題点をハッキリと映し出す鏡である。マイケアプラン運動の基本的な考え方もこの視点に立っている。(【参考①】シルバー新報 2018.3.16.の拙稿「『我が事、丸ごと』何のこと?」参照)

 

4.介護保険法施行に至る過程

・1982(昭和57)年の老人保健法

(成人病(生活習慣病)予防~後の介護予防につながる。老人医療制度が老人福祉法から移行。(2008年に「高齢者の医療の確保に関する法律」となる)

・1987(昭和62)年の社会福祉士及び介護福祉士法

(社会福祉士の役割は相談支援、介護福祉士の役割は三大介護=食事・排泄・入浴の介護というように社会福祉が矮小化され、社会福祉教育も大きく変質)

・1990(平成2)年の社会福祉関係8法改正

(老人福祉法、身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法、児童福祉法、母子及び寡婦福祉法、社会福祉事業法、老人保健法、社会福祉・医療事業団法の8法の一括改正。しかし、社会福祉事業法の社会福祉基本法への改正は見送られた)

・1990(平成2)年~1999(平成11)年のゴールドプラン(高齢者保健福祉推進10か年戦略)

  (厚生省・大蔵省・自治省の3省合意で1989年に策定~総額6兆円。その後「新ゴールドプラン」(1995年-)、「ゴールドプラン21」(2000年-)と続く。これにより在宅サービスも進んだが、それ以上に特養など箱物サービスが急速に拡大された。)

・「女性を介護地獄から解放せよ」の論議中心で「介護の本質論議」はショートカットされた。(そのため家族を支援するという考え方も無視された)

・「税か社会保険か」の論議も中途半端(どのような社会保険にするかの議論も殆どされていない。その結果、年金保険型の長期保険ではなく、健康保険型の短期保険に短絡していった)

・「措置から契約へ、福祉のパラダイム転換」と御用学者が大騒ぎ(介護保険は実は措置制度と健康保険制度の焼き直しに過ぎない)

・「現金給付の否定」~これも「女性を介護に縛り付ける」との議論であっさり否定された。

・「障害児者の介護を除外」~介護保険制度の対象は高齢者の介護に限定されたため「当事者としての権利性」が大きくそぎ落とされた。このようにして高齢者の介護と障害児者の介護が別々のものとして展開されるようになった。(高齢者福祉のパターナリズム(父権主義的、保護主義的)がそのまま継続されてしまった)

・「日本型ケアマネジメント」の誕生(ケアマネジャーをこともあろうか事業者の職員として囲い込み、違法な二重契約により利用者を欺いた。その結果、マイケアプランは事実上否定された)

・「サービス内容や報酬基準」は特養モデルがベース。時間の切り売り的サービス基準。(在宅モデル、生活モデルではない)

・2000(平成12)年の社会福祉基礎構造改革(社会福祉事業法、身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、児童福祉法、民生委員法、社会福祉施設職員等退職手当共済法、生活保護法、老人福祉法、公益質屋法の改正。社会福祉事業法は社会福祉法と名称が変わり「地域福祉」が法制化され市町村の任意計画として「地域福祉計画」が登場)

・2000(平成12)年4月の介護保険制度スタートに合わせて成年後見制度、任意後見制度が始まった。意思能力が低下した人が契約当事者となる場合のサポートを可能としたが、その普及には多くの課題があった。あまりにも難しい法律表現。ここにも当事者を無視した制度であることが歴然としている。

 

 

5.1999年に京都で始まったマイケアプラン運動

裏切られた介護保険制度(介護保険実施以後も特養や老健等の入所型施設は増え続けた)

ADLの自立ばかりを強調(施設モデル、医療モデルをベースにした介護保険ではQOLの向上は望めない)。

2005(平成17)年以降の「地域包括ケアシステム」の登場で、「(介護保険法に基づいた)地域包括支援センターを軸とした地域福祉」という「歪な地域福祉」が登場した。

また、同年の介護保険法改正で第1条に要介護高齢者の「尊厳の保持」の文言が挿入されたが、実態はますます当事者の主体性や能力、意欲、価値観、ライフスタイル等、当事者や家族のレジリエンスを無視する傾向が顕著になった。

2015(平成27)年改正では遂に要支援者への保険給付の一部を市町村の行政サービスとするという先祖返り(新総合事業)を強行。今後は要介護2以下もこのシステムに組み込まれる予定である。この行政サービスに関しては厚生労働省が「(行政サービスであるため)ケアプランの自己作成は適当ではない」という考え方を示しているため殆どの自治体はその方針に従い自己作成を認めていない。これは要支援者の主体性や自律性を無視したもので、まさに行政処分としての措置制度への逆行である。

こうした背景には介護保険財政の問題がある。健康保険給付の伸び以上に急速に膨らんできた介護保険給付を何とかして抑制しようという政府の方針がある。

こうした方針の中で最大のターゲットにされているのが要支援者や要介護者の日常生活支援である。「ホームヘルパーは家政婦ではない」というような奇妙な論理で要支援者や要介護者及びその家族などの日常生活支援に関する重要性が全く無視されている。介護保険サービスはますますADL介護に特化され、その福祉的要素を縮小してきている。

生活者(社会生活の主体)としての当事者という認識、それを社会的に支えていくことの重要性が全く無視されている。「尊厳の保持」という条文が全く空文になっている。

また、2018年4月11日の財務省の財政制度等審議会・財政制度分科会は「ケアプランの有料化」を打ち出した。これに対して一般社団法人・日本介護支援専門員協会(会長 柴口里則)は4月26日に「居宅介護支援費の利用者負担導入論についての意見表明」を出し反論した。しかし、この反論は極めて低次元で、日本におけるケアマネジメントとそれに関わる専門職が殆ど社会福祉的に機能していない実態を露呈した。

こうした一連の動向に対してマイケアプラン研究会では毎年の公開企画(「お隣人さんなしで大丈夫?」シリーズ)で、当事者の立場から会員以外にも広く呼びかけ真剣な意見交換を重ねてきた。

しかし、今までのマイケアプラン研究会の取り組みはやはり「介護者視点」であった。発足当時は自分の親や舅・姑の介護が中心だったからである。しかし、研究会も今年20周年を迎え、親の介護から連れ合いの介護、そして自分の介護に向き合う段階を迎えている。

そこで今後は「人に迷惑を掛けてはいけない」「お節介をしてはいけない」という俗流倫理を乗り越えて、豊かな関係性(コミュニティ)づくりをベースに、自分自身の介護に向き合っていこうとしている。まさに「真のマイケアプランの実践」に向かおうとしている。

関係を大切にする介護、人生を大切にする介護、生活を大切にする介護とは何か。本当に自分が必要としている介護とは何か、そのことに正対しようとしている。

その点において「我が事、丸ごと、地域共生社会」はわれわれ当事者こそが現代社会の矛盾や危険性に向かって発すべき言葉であり(この言葉は日本語的に間違っているという人もいるが)、カウンターパワーの表現でなければならない。

それを権力者(コミュニティの破壊者)が発している。あたかも正義の剣のごとくにである。なぜこうしたことになったのか。それは言うまでもなく制度やシステムの限界が見えてきたからである。利用するだけの介護保険、事業化するための介護保険としての展開が自己破壊の道を突き進んでいることがハッキリしてきたからである。つまりこのままでは介護保険制度は破綻することが見えてきたからである。しかしそのような道筋をつくってきたのは政府である。徹底した縦割りの福祉構造をつくり上げた結果である。

本気で「我が事、丸ごと、地域共生社会」をいうのなら、政府、行政は自らの組織改革(官僚制の組織原理の克服)に向けて心血を注ぐべきである。上位計画としての地域福祉計画を市町村につくらせるという小手先の手法でバラバラにされた社会福祉の現実が修復できるものではない。

そして我々市民は当事者としての自己、生活者としての自己、社会的存在としての自己、分割できない自己を見つめなおし、自らを組織化しなければならない。当事者が自らを組織化することこそ最大のカウンターパワーとなる。

現代日本の社会福祉に最も欠けているのは当事者組織や当事者運動ではなかろうか。社会福祉協議会は何よりもそのことに最大限の力を発揮すべきである。マイケアプラン研究会は今後、小さくとも当事者運動の一翼を担った行くべきだと考える。

ソーシャルワークでは個別化と社会化が重要な要素である。十把一絡げにできない(してはならない)個別性をもった課題を浮き彫りにするとともに、そうした個別性にも共通した社会的背景があることを見抜き協同してその背景に向き合うことこそソーシャルワークの最も重要な役割であり責任ではないか。ソーシャルワークの「ソーシャル」にはそうした大きな「ソーシャライズ」という意味合いがある。しかし、現代におけるソーシャルワークには個別化機能も社会化機能も極めて希薄になったいるのではないかと思っている。どうしてそうなったかの検証と大いなる修正が必要である。

 

6.社会福祉法人健光園の法人理念「生涯地域居住」

2012(平成24)年11月26日に法人理念を「生涯地域居住」と定め、改めて「地域福祉実践」に取り組むことを決意した。

その背景には4.で述べたような介護保険制度の度重なる改悪がある。しかし、それだけではない。介護保険事業を「新成長産業」とする全国老人福祉施設協議会等の動向、ますます行政の下請け団体となってきた社会福祉協議会の現状、家族関係やコミュニティ関係の深刻な状況がある。

これからの社会福祉法人は民間社会福祉(運動)の担い手であることを再確認し、事業者の立場からだけでなく、市民・住民の立場から再出発する必要がある。

そのため、「真のワークライフバランス」や「真の働き方改革」への取り組みは重要だと考えている。職員が単なる「制度上の専門職」としてではなく、真のソーシャルワーカーとして市民・住民によるコミュニティの再生にみずからの生活の場で取り組むことが重要である。

ややこじつけかもしれないが私はこうした取り組みを「産業福祉」と呼んでいる。つまり、職員行動としてだけでなく、市民・住民として自らの居住地においてコミュニティの再生に取り組むことが真のソーシャルワーカーへの成長につながると考えている。こうした取り組みなしに真の地域福祉は実現しない。「産業福祉」と「地域福祉」はまさに車の両輪である。ここでいう「産業福祉」は企業者、経営者の社会的責任において実践すべきものである。企業の社会的貢献の基本がここにあると考えている。

 

7.社会福祉協議会と一般の社会福祉法人の新たな役割と関係を創る

最後に簡単な提案をする。

現在、地域包括支援センターはほとんどの場合市町村から介護保険事業者である社会福祉法人に委託されている。他方、社会福祉協議会の多くは1990年度以降いわゆる事業型社協となり多くの介護保険事業等に取り組んでいる。

この両者の関係を根本的に見直す必要がある。

地域包括支援センターを行政からの委託事業としてではなく「社会福祉法に基づく社会福祉協議会固有の事業」とする(名称も変更することが望ましい)。そうすることでいわゆる小地域社協(学区社協、校区社協~これらは法的に規制されていない)が飛躍的に活性化し、コミュニティ再生への推進力が大幅に増大する。その運営財源は行政からのひも付き補助金ではなく共同募金配分金や会費、寄付金等で賄う(行政からの補助金もひも付きでない奨励補助金なら歓迎するが)。

他方、介護保険事業者である一般の社会福祉法人は事業型社協がやってきた介護保険事業等を引き受ける。同時に社会福祉法人は法律上も社協を構成する主要な団体であることやその意義をシッカリと認識し、個別の法人としてはその展開が難しい各種の社会福祉運動を社会福協議会の構成員として組織的に展開することが重要である。

そうすることで単なる事業者ではなく、重要な社会資源として当事者との協議の場に積極的に参画し、当事者視点からソーシャルワークを展開する社会福祉法人に成長しなければならない。(現状では介護保険の機能として「地域ケア会議」が行われているが、これは市町村が主導する会議であり、上記提案の趣旨とは異なるものである)

こうしたことが実現すれば市民・住民主体の「我が事、丸ごと、地域共生社会」への道が切り開かれるのではないかと考える次第である。

 

【参考②】健光園法人パンフレット

【参考③】マイケアプラン研究会関係資料

【参考④】シルバー新報2016年8月19日掲載「小國の小論文」

【参考⑤】2019年5月19日に開催される社会福祉法人健光園創立70周年記念シンポジュウムでの基調講演(原稿)