調査研究

 

介護職の絶対的不足状況に際し

 

2016年7月26日
社会福祉法人陽光 理事長

金澤 剛


〈はじめに〉

 

 先日、通年のごとく「みかんの丘」の施設長、事務長が来年の新入職員募集の為に、大分・宮崎県を除く九州各県、訪問先40~50ヶ所の介護福祉士専門学校、短大、大学あるいは高校等を周ってきた。
 その報告によると「もはや介護職は絶滅危惧種」に近い存在となっているとのことである。ある学校は廃校、廃課、またある学校は廃校に向け新期学生募集中止、また全ての学校は定員割れの状態であり、年々その激しさを増し、来年あるいは遅くてもあと数年で「介護に係る学校」は壊滅するのではないか。このような状況であるとのことであった。
データでみると2008年は介護福祉士を育てる大学、短大、専門学校などの全国の養成課程の数は全国で507課程(434校)であった。それが5年後の2013年には412課程(378校)へと2割減じ定員の充足率も平均70%を下回っているこの現状である為に壊滅するのも時間の問題であることが誰の目にも明らかである。
一方、2025年には248万人の介護職が必要とされ現状のままでは約30万人から40万人の不足が生じると厚生労働省は推計する。
その為国は就学資金を貸し付けたり、また処遇改善交付金制度やキャリア段位制度の導入といった取り組みなどを通じ、介護職の魅力高めつつ数をのばすことを企画している。また、今後もその強化を政策として打ち出している。だがしかし、残念ながら今の所高齢化や人口減のスピードについていけないのが先に記した九州の現実なのである。

(Ⅰ)なぜ介護職が職場に定着しないのであろうか

介護の仕事に
 たしかに先に記したように介護職が不足する理由の第一は待遇問題である。介護職は全国の産業全体の平均月収賃金より約10万円も低い賃金である。薄給である。これでは家族をも養えないほどの賃金でもある。
 それにも増していわゆる3Kしごとなのである。これでは介護職は絶滅危惧種になるのも当然であります。
 その為国は数年前から制度として交付金を付与したりし、また、時の政府は一億総活躍社会の創出を合言葉に「介護離職ゼロ社会化」と称し介護職の待遇改善に乗り出している。
 また、介護職に未来の夢を抱かせるためにキャリアアップのための政策をも検討を開始している。しかし、私どもは先にも記してきたようにどうも遅きに決して来た感じがする。それは以下の点が「介護職から人がはなれていく」一因でありそのことに誰も手を入れていないのが原因である様な気がする。
 かつて、十数年前「介護保険制度」が出来上がる頃介護職は「やりがいのある仕事」あるいは「魂のしごと」など語られ若い人たちにとって大変魅力のある「しごと」として位置づけられていた。そのため先に記したように介護職の養成施設がたくさんできたのである。それがいざ「介護保険制度」がスタートし介護職が現場で職するようになると先程の3K職場の実態を体験するようになり一人去り、二人去りの右肩上がりの就労人口となっていったのである。
 その原因は直接は「3Kしごと」場と言われているが現場から見れば問題はそれだけではなかった。若い介護に燃えた人は例え3Kしごと場であっても「やりがい」さえあれば、何とか続けることは出来たのである。それくらいの自己確認を欲しがっていたのが当時の若い人達であり、今もそうなはずである。問題なのは直接的には「やりがいの喪失」なのである。それが起因して3Kしごとでもあるため「嫌気」をさしたのである。
 一般的に職業としての介護は常にその人の隣にいるような存在として身体的にも心理的にも誠意をもって支え、常に要介護者の主体性を保障することが介護である等の介護論が主流である。
 しかし、ここにはかなり悩ましい問題を内包している。それは一言で言えば介護は要介護者の変化に常に横にいる存在であり、それが介護の価値観なのである。その介護論の延長線は要介護者の死をもって介護は終了となるのであろう。
 これではいくら介護がやりがいのあるしごとであると思ったところで仕事に忠実であればあるほど当然疲弊していくのである。「燃え尽きる」のである。この仕事がもつ宿命と3K環境は当然介護に職す人たちは減じていくのである。
 今この問題を対岸におき「介護の専門的理論」、「介護論」をつくりあげる必要があるし、それが「介護はやりがいがある」と感じている若い人たちに伝える言葉である。
 職業としての介護は確かに今も以前も「やりがいのある仕事」であることには変化ない。それが職業としての魅力が日増しに減じ、あと数年で若い人たちから見向きもされない世界に突入しようとしている原因は述べてきたように2つの要因からなる。
 1つは言わずもがなであるが、3K仕事としてイメージが定着してしまったこと、1つは「職業としての介護」に新たな発見を見出す事が不可能となったことであろう。

(Ⅱ)介護は「やりがいのある」しごと
 
「職業としての介護」にはそのポジションに変化はない。それは現代社会は「しごと=労働」としては貨幣が介在し「しごと」の世界では人間関係でさえ金を介して成り立っている。その一方私共の生活する市民社会の中にあっては貨幣関係で割り切ることのできない人間関係が現存している。問題なのはその後者の世界をも前者の貨幣を媒介する価値が深く入り込んできていることなのである。その世界にあって例えば家族、仲間、奉仕、互恵、友愛、きずななど語られる世界は現存する。
 介護もこうした関係でありお金に換算できない「魂の労働」があると想定されているのである。この著しい現代市場世界にあって惜しみ無しに与える人間関係がしかも仕事として成り立つ世界なのである。
 例え、介護に携わる若い人たちが減じ、たとえ少数になったとしてもこのことは不変なのである。
 ただ問題なのは「介護にかかわる原則」が不変であるのであるが、介護に関わる若い人達は現実的に「やりがい」が喪失しているのである。
 それは利用者にかかわる介護側のポジションが不明であり、先に記してきた「寄り添う介護」の限界が露呈してきていることなのである。
 介護する側の介入により要介護の人達により良い方向に変化を生じさせる「力」が必要となってきたのである。
 介護する側と介護される側がある目標を共同で定め、それが達成する「幸福な一瞬」を必要とし始めてきたのである。そのような力を体系的につくり出す新たな「介護」を必要としてきているのである。それが見いだせず従来からある「介護」の世界で安座しているが故に若い人であればあるほど「やりがい」を見失ってきているのである。
 今私たちはこの介護の方法を「自立支援型介護」と呼ぶことにした。この介護に対する考え方、また、手法を体系的に完成することが今必要とし、この体系を「介護論」とする必要があるのである。この「自立支援型介護論」「介護技術」を整理、完成、進化することが大切であり、それと同時に先に記してきた処遇、待遇問題、キャリアアップ問題をも当然整理体系化する必要がある。
 今このことを前提として言葉として「日本的介護」と呼ぶことにする。

(Ⅲ)介護労働力を海外にもとめる問題点あるいは課題
 
一方、今後予想される介護人材の絶対的不足に際し、海外からの働き手によりそれを補なおうとしている動きもある。外国人技能実習生としてその受け入れ枠を介護領域に広げるとの案である。
 遠からずしてその案は法制化され、実現することとなろう。また、それを見越して送り出し国であっては「日本語学校」を中心にして青田買いがはや始まっていると聞いている。しかし、私はこの動きに同調することに同意はできない。なぜならば以下の理由からである。
 第一に、例えば農業あるいは自動車工場あるいはプレス工等にて実施されている技能実習生とは名実はともあれ技能を習得することが目的であるより、送り出し国と日本の経済格差から生じる貨幣価値の落差を利用した出稼ぎであろう。その現実の延長線では無理が来るのである。その理由は私どもが必要なのは「介護」の現場に従事する「介護人」であるためである。そのことを例えば「最後に残されたフロンティア=ミャンマー」など語られたりしている。
 そのフロンティアとは「安価な労働者」の産出国を指しているらしい。その発想にそろそろ終わりが訪れているのである。

1. 安価な労働力として海外労働者を位置づけることの限界

 2016年7月18日の日本経済新聞によると「外国人労働者」に陰る日本の魅力「縮む賃金差、韓国、台湾と争奪」との記事が掲載されている。それによると例えば韓国などは慢性的な求人難でありまた、台湾もしかりである。そのため当然給与等の待遇の向上が生じ、その結果日本との給与格差はほぼなくなりつつあり結果的に日本の魅力がなくなりつつあり、また例えば、韓国・台湾などは一部の業種で単純労働を受け入れておりその結果両国に流れている。
 その現実の中で日本は単純労働者を受け入れてなく、そのかわり技能実習生制度として制度化し実質は単純労働者を受け入れるなど極めて「わかりづらい」制度で運営しているのが現実である。
 また、何年か続いた円高時代により産業の空洞化と呼ばれる事態を生じ、生産現場を海外に、特に中国も含むアジア諸国に求めた。その結果当然アジア諸国も近代化、現代化が進行し経済成長を生じたのであった。安価な労働力を求めその場所に生産現場とし生産した結果労働者の賃金上昇は当然である。
 例えば、まだまだ日本との賃金格差が激しいミャンマーでも昨年9月に全国一律で1日あたりの最低賃金を3600チャット(約334円)とする制度が初めて導入された。また、マレーシアでは労働集約型産業から高付加価値産業へと転換を図り2020年までに「高所得国」を目指す政策のもと民間労働者の最低賃金制度を一昨年スタートさせた。また、現在我国に技能研修生等として送り出している全ての国は毎年10~20%の賃金上昇率を生んでいる。

このような状況なのである。

 かつて我が国の地方は安価な労働力を求めて自動車産業あるいは製紡工場等が進出していたがそれがより安価な労働力を求めてアジア諸国に工場を移し、空になった地域は疲弊に拍車をかけた事があった。
 今、その戦場がアジア諸国に移ってきているのである。だが、かつての日本の地方と違う点は諸外国は当然自立への過程としてこのことを位置づけ、先に記したマレーシアの方向性をすべて目指しているのである。
 安価な労働の産出国アジアは遠からずして位置づけが変わるであろう。

2. アジア諸国も遠からず高齢社会化する

 我が国は65歳以上人口が26.7%(2015年)であり、イタリアの22.4%ドイツの21.2%を抜き世界最高国である。
 また、台湾にあっては2018年に高齢化率が25%になることが推計され韓国に於いては2012年に11%、2025年に20%、2037年には30%と推計され、世界でも類をみないほどの速さの高齢化進行国である。
 他に2025年に於ける高齢化率を推計すると
中国・・・13.4
香港・・・22.1
シンガポール・・・22.9
マレーシア・・・8.7
タイ・・・12.9
インドネシア・・・9.0
フィリピン・・・6.6
インド・・・7.2                       と推計されている。
いずれの諸国もヨーロッパ諸国の高齢化進行率が何十年いや、百年以上の時間経過を必要としたのに比べ、あまりにも急激である。

Ⅳ. 現在の送りだし国も遠からずして「介護」を必要とする

 アジア諸国、たとえば我が国に技能実習生として現在送り出している諸国も遠からずして「介護」を必要とする。
 先に記した高齢化社会の進行は当然少子高齢化社会化と同義語であり、言葉を変えれば家族制度の崩壊と言い替えても良い。家族、血族での生活を基礎としていた。米作地帯アジアモンスーン地域に於いてはその産業基盤の変化は当然家族血族関係の変化を必然化する。それまで、かつての日本がそうであったように介護が必要になった高齢者などは当然家族、血族で見るのが当然のことであり、それが社会規範でもあった。それが崩壊しつつあるのである。そこには当然「介護の専門家」を発生させ「専門的介護」を生むあるいは必要とするのである。

Ⅴ. 日本の介護人材不足を補うために

 我が国の絶対的介護人材不足の現実とその深化の予測に対し、区には技能実習制度を介護領域に広げ、それをもって一助になそうと企画していると聞く。
 介護人材不足の日々に明け暮れている介護現場にあっては藁をもつかむ思いでそれに期待するのは当然のことである。
 だがしかし、ただ期待をするにはあまりにも矛盾が多すぎる。それは先にも記してきたようなアジア諸国の環境、社会課題の変化とそもそもの対人関係のサービス業である「介護業務」が単純労働あるいは工場労働者の日本導入を前提としたシステムがなじむのが問題である。その2重の意味の課題を前提として私どもは次の仕組みを考え実行していきたいものだ。
 ある意味で私たちなりの技能実習生実習システムかもしれない。


Ⅵ. どのようにして国境を越え介護を伝え研修してもらうか

 それは当然のこととし送り出し国に日本に於ける研修終了後、働き場所があることが大前提である。何も複雑なことではない。
 今だ「介護」の概念あるいは「介護」という言葉さえない国も時代と共に専門的介護が
必要となるのは時代的要素であり、自然な事なのである。それがあるが故に今私どもは実質的な介護研修の場とシステムを具体的に企画しなければならない。
 「介護」が必要となった母国にそれを実践するための研修―このごくあたり前のシステムが稼働するように企画をしていきたい。