2023.6.26.小國英夫

【投稿】

異文化社会適応における日本語教育上の留意点

 

~国際介護人材育成事業団における日本語教育の課題~

【前書き】

日本は1987年に介護の専門職である「介護福祉士」という国家資格を創設し、2000年度から社会的介護制度である「介護保険制度」がスタートしたことでアジアにおける社会的介護の先陣を切った。

しかし社会的介護を必要とするのは日本のみではない。韓国、台湾、中国そして東南アジア諸国も急速に少子高齢化が進行しており、既に韓国は2008年から介護保険制度を持っており、中国は2025年に全国的な介護保険制度の創設を予定している。台湾は間もなく超高齢社会(高齢者人口比が21%超)に突入するが現状では国民保険(医療保険)で対応している。

こうしたことから事業団はこれらのアジア諸国との間で積極的に介護人材の交流を進め、互いの文化を尊重しつつより良い介護人材の育成と介護文化の交流発展を目指している。

現在、事業団ではミャンマーからの介護人材を受け入れ全国の会員法人が経営する介護福祉施設等で働いてもらっている。受け入れ法人の日本人介護スタッフや要介護高齢者からの評判も上々である。

しかし問題はやはり日本語である。彼ら彼女らは平仮名、片仮名、漢字、外来語で構成されている日本語の読み書きに苦労している。また、福祉において最も重要なのはコミュニケーションである。コミュニケーションが成り立つためには単に語彙や文法の学習だけで十分とは言えない。何故なら「心が通い合う」ことが福祉におけるコミュニケーションの必要十分条件だからである。

日本語を含むアジアの言語の多くはハイコンテクスト言語であり、英語などのローコンテクスト言語とは大いに異なる。

しかも文化的背景や生活歴の異なる外国人との「心が通い合うコミュニケーション」は決して簡単ではない。ミャンマーの地域社会や家族の在り方は日本の現状とは大きく異なる。

また現在、福祉現場における日本人職員の多くは核家族で育ったため日常的に高齢者(特に要介護高齢者)と接する経験を持っている者は決して多くない。同時に日本人福祉職員の多くは標準化(時にマニュアル化)され制度化された介護等の方法を学習し国家資格等を得て福祉現場に来ている。

他方ミャンマーから来た彼ら彼女らの多くは両親や祖父母との多世代家族で暮らし、家族介護が当たり前の生活をしてきた。また地域社会の中心に佛教寺院があり、学校や医療機関の多くは佛教寺院により設立され、人々の寄付で多くのことが賄われている。

現在は軍事政権による独裁的政治が展開されているが、外貨獲得を必要とする政権は引き続き労働者の送り出しをしている。

 

【本論】

事業団ではミャンマーから来た彼ら彼女らの内の希望者に事業団の国際人材支援担当者による日本語教育を展開している。

ミャンマーから来日し介護技能実習生、特定技能介護或いは在留資格介護として現在日本各地の特別養護老人ホーム等で介護業務に従事している学習者は、日本に来て1年以上となる者で、N16名とN217名である(入国時の条件はN3)。従って決して日本語学習の初心者ではないが、受講者それぞれの将来への希望により日本語学習に対する態度や関心が異なるようである。以下、学習者の将来への希望を大きく3分類して学習上の課題について述べることとする。

3分類とは以下の通りである。

     介護福祉士の国家試験に合格して、日本で介護職として長期間働くことを希望する者。

     介護職ではなく、日本語教師として日本で、或いはミャンマーで働くことを希望する者。

     介護職や日本語教師ではなく日本で、或いはミャンマーで他の分野の仕事(例えば喫茶店やレストランの経営、その他のビジネスの起業等)を希望する者。

それぞれの関心や目的によって日本語学習の課題や態度が異なる。

     の場合は介護福祉士の国家試験合格を目指して、制度に関する用語や介護福祉に関する専門用語について漢字や外来語を含めて正確に理解し、長文の読解や作文の能力の向上が必須となる。つまり専門用語に精通する必要がある。その場合、現場で飛び交う日常的な表現もシッカリ覚える必要がある(例えば「通所介護」は「デイ」、「短期入所介護」は「ショート」、「小規模多機能居宅介護」は「小多機」等々のいわゆる略語=業界用語も含めて)。 

同時に日本で介護福祉士として仕事をするためには利用者との「心が通い合うコミュニケーション」が最重要課題となる。その時利用者が話す方言の理解も重要な課題である。特に高齢者介護においては若者言葉でのコミュニケーションは不適切であり、一人ひとりの生活歴を理解した上でのコミュニケーションが重要となる。

更には日本人職員や上司とのより良い関係の構築も非常に重要であり、キャリアアップすれば当然組織的な事項や経営的な事項、関係行政への諸手続き等についても身に着ける必要がある。そのためには互いの文化(価値観、死生観、宗教観、倫理観、行政システム等)を深く理解し合う必要がある。

また、長期滞在においては職場以外の、例えば地域住民や地域の一般資源との関係づくりも極めて重要となる。つまり、①の場合は一方で「専門用語」の習得が必須であるが、「専門用語をそのまま使って利用者や家族とコミュニケーションをすることは不適当」という現実もシッカリと理解しなければならない。福祉的援助とは家族を含む当事者の主体的な日常的社会生活の改善に関わる事であり、単に制度化あるいは商品化された福祉サービスを提供すれば済むということではない。

つまりこの場合の日本語学習の特徴は一方で専門用語の正確な理解が求められるわけであるが、実践的には専門用語が時にコミュニケーションの妨げになるということも理解した上で、言語的・非言語的コミュニケーション(関係形成)の重要性をシッカリと身に着ける必要があるということである。換言すれば、矛盾するようであるが、自分自身が専門職である前に「一人の生身の生活者」であることの自覚が最も重要だということである。

     の場合は日本語教師を目指すわけであるが、この場合は当然「音声、文字、語彙、文法」の学習が基礎となるが、「(歴史や文化を含む)言語と社会」及び「日本語教育法」等に関する学習が学習者の関心の中心となる。

 学習者は既に自分自身の日本語学習の経験に加えて日本での就労経験、生活経験、職場及び地域社会での人間関係等を経験しており、母国のみで暮らしてきた者に比較して日本語教育者としての優位性がある。

 しかし、この場合の学習者(ミャンマー人)は日本での就労経験が介護現場に限定されており経験に偏りがある。その点は留学生の場合のように各種のアルバイトを経験した者、或いは他分野で技能実習や特定技能等としての経験を持つ者に比較して社会経験の幅が狭いといえる。従って技能実習期間終了後に特定技能に進むなどして日本での豊富な社会経験と知識や情報の獲得が求められる。

 言語は単なる記号ではなく文化である。従って日本語教師には日本文化の伝道者としての役割が求められる。特にハイコンテクスト言語である日本語の場合には母語を日本語に置き換えるだけでは伝わらないことが少なくない。

 また学習者の生活歴や学習目的によっても求められる日本語教育の内容や方法は異なってくる。田中章夫によれば「言語に関する位相」には「性差、世代差、社会階層、社会分野、心理的要因(忌避、美化、仲間意識)、表現様式、伝達様式、多数者向け(マスコミ等)」があるとされている。

更に日本語を母語としない者への日本語教育においては上記以外にも多くの多文化による「位相」があると考えられる。

また、日本語には男性語、女性語、尊敬語、謙譲語、丁寧語、美化語などがあること、また職業に関するいわゆる専門用語(隠語や符丁を含む)や外来語が非常に多いという特徴がある。さらに近年は和歌や俳句に用いられる古語表現や四文字熟語或いはアニメで使われる言語への関心も深く日本語教育を非常に複雑にしている。

しかし、こうした多くの内容を網羅することは決して容易ではない。従って教師が一方的に「教える」というよりも「共に学ぶ」という姿勢が重要となる。

     の場合は介護や日本語教師を目指す学習者とは異なるニーズを持っている。喫茶店やレストランの経営、日本企業への就労、NPOやNGOでの活動等々そのニーズは幅広い。

 学習者の中にはミャンマーの都市部出身者以外も少なくない。従って初めての外国生活や都市生活で非常の多くの刺激を受けている。また自分の経験だけでなくSNSによって友人同士での情報交換も盛んである。加えて経済的な要望もある。母国の家族・親族からの経済的要望に応えるためにより多くの所得を得たいというニーズも強い。

 しかしハイリスク・ハイリターンということに関しては慎重でなければならない。現在の職場である介護施設の経営者や日本人職員からも多くの情報を得て、いわゆるブラックな誘いに乗らないよう注意深く将来の道を選択しようとしている。

 また日本人と結婚する者や家族の呼び寄せを考えている者もいる。その場合は将来に向けて子どもの教育に関しても考えなければならない。その場合は二言語使用(バイリンガリズム)の生活をどのように創り上げていくかという課題も重要となる。子どもの言語的成長が不十分な場合は非常に不幸なことになる。また呼び寄せた家族の日本語習得が進まない場合も同様に深刻である。ということから、学習者本人の日本語習得の課題のみでなく、将来に向けて家族に関する課題にも十分配慮する必要があり、学習者の課題は決して単純ではない。

 

【最後に】

以上、①②③の例について学習者本人及び指導者の課題に即して、未熟ではあるが社会言語学の観点から考察してきた。つまり、日本語教育に限らず言語に関する教育や学習においては学習者が何を目指し、何を学ぼうとしているのかをシッカリと理解(自覚)した上で、それぞれのニーズに対応して行われる必要があるということである。

しかし、①②③に共通するのは「言語は文化であり、言語を学習することは互いの文化を学ぶこと」ということである。決して音声、文字、語彙、文法を学習すればそれで済むということではない。相互に学び合うということが最も重要である。

その意味で事業団における国際人材支援担当者の努力は大変なものだと思う。またそれぞれの学習者の態度や努力も敬服に値する。

 現代社会におけるコミュニケーションは「情報のやり取り」に重点が置かれる傾向が強いが、真のコミュニケーションとは「心が通う」ことである。前者はやがてAIによりその多くが代替される可能性がある。残るのは「心の通うコミュニケーション」である。これは技術のレベルではなく、アートの領域だと思う。

 社会福祉も同様で、制度(システム)や方法(テクノロジー)が全てではなく、最も重要なのは生身の人間同士の関係性であり、心が通い合うことである。言語を学ぶことも互いの関係性を構築することに他ならない。

 

参考文献

田中章夫『日本語の位相と位相差』明治書院 1999

原田登美「言語能力のレベル差と異文化社会適応への影響 :ホームステイをした留学生の日本語力は適応にどう関わるか」『言語と文化』第17巻 241268頁 2013

福島青史、イヴァノヴァマリーナ「言語能力のレベル差と異文化社会適応への影響 :ホームステイをした留学生の日本語力は適応にどう関わるか」『国際交流基金 日本語教育紀要』第2号 2006